中宮寺菩薩半跏像
広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
いずれも国宝に指定されている。この二つの仏像に何故か20代の頃から惹かれており、何度か訪ねて拝観したり、仏像の写真集を切り抜いてはそのえもいえぬ美しさと佇まいの恩恵に肖ろうと何度引っ越しをしても飾ってしまう。弥勒菩薩とキリストとの関係性について、いくつか本を読んでいると、弥勒菩薩が将来においていかに大事な存在であるかがわかってくる。現代の後アトランティス第5文化期は徳と知性が離れてしまっている時代で、横行が罷り通ってしまう、誰がどう考えてもおかしいことが平気で成立してしまい、それに対してNOを突きつけてもどうにもならないということがたくさん存在している。エネルギー問題もその顕著な例で、あれだけ大きな地震と大惨事があったにも関わらず、巨大な権力に伏せざるを得ない状況に「仕方がない」という一言で蓋がされてしまう。女川原発2号機の運転差し止め訴訟について、2024年の仙台高裁では東北電力側が勝訴し、住民側は上告を断念した。どんな想いでこの裁判を戦っていたのか。それを想うと心が痛む。徳と知性がともに存在できない社会はまだまだ続くと思う。
ひとりひとりの個人の力が必要になってくる。誰に見られてなくとも、行動を起こさずとも、まずは、どんな心の状況でいるのかが大事で、その様子を天地が見ている。陰徳を積むということ。言うは易しで行うは難し。誰が誰よりどうたとか誰の仕事がどうしただとか・・・、私も様々なことに囚われてしまうが、それでも先人たちは心に炎が灯されるよう生きた言葉を残してくれた。
三次元空間の内なる認識。
立つこと。意志すること。
想うこと。感情を大事にすること。
考えること。思考すること。
この三つの認識が個人に属するようになったとき私たちは霊的世界と切り離され、
孤立した。しかしながら、孤立することによって本当の自由を与えられ、本当はまだ自由が与えられるのはずっと早かったのではないかと思うが、星のリズム、天のリズムがよしとしたのだと思えば、後戻りはできない。自由意志を基にして何を為してゆくのかを神々は注目して観ている。誰かの意志に従って生まれる行動には真の意味で「愛」は体現されないということを天は知っていた。誰でもないその人の内側から生まれる言葉と行動は誰でもないその人のもので、それは物質界にいる私たち人間にしか体現できないことでもあり、その言葉と行動を自然界は欲しているように思う。種のように小さく固まった三次元の空間認識から羽ばたいて、生きた生命の空間(エーテル)、叡智の領域へ向かうこと。それがまだ萌芽だとしても、来るべき未来において育んでいきたい空間認識は地球を中心に据えた天球空間を描くことなのだと思う。
原初に言葉があり、言葉から宇宙が生まれ、言葉から生命が生まれたことをヨハネ福音書の壮大な叡智が教えてくれる。そして、遠い将来において弥勒の福音が響くとき、生命という物質が言葉に還ってゆく。それは何千年という遠い将来だけれど、決して遠くない話しであり、私はそのプロセスを正しく歩めるのか。歩めているのか。
全ての人間の行動が完全に道徳的な衝動に突き動かされてゆくことを信じたいし、私が関わっている仲間たちはそのような想いを意識せずとも大事にしつつ日々を過ごしているように感じる。
シュタイナーはキリスト衝動の最も偉大な師は弥勒菩薩であると興味深い発言をしている。弥勒菩薩は世界の誰一人残さず救うという大きな願いを誓った。全ての人間を貫く「道徳的衝動」が「誰一人残さず救う」というその願いなのだと思う。
私たちが考えているよりもずっとずっと大きなことを「人間」は担っている。何ができるのか。
自分に集中すること。
2回目の除草が終わって稲は順調に育っている。
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